6年前の今日、あの時、家内と私は?
2011年3月11日午後2時26分、東日本大震災発生。
あの時、東京は震度5で、
私は会社で仕事中。
家内はジムの帰り、友達とイタリアンレストランで食事中。
会社の皆は仕事を中断して情報収集。
三陸沖マグニチュード9.0、最大震度7!
家内や田舎そして親戚と全く連絡とれず。
数時間後、ラジオから入ってくる情報は、
津波被害で死者多数とか、火災発生とか、
大変な事態に陥っている情報ばかり。
地下鉄も動く気配が全くなく、
歩いて帰る人、ホテルに向かう人、車で帰る人など、
道路は大渋滞。
午後7時頃、私は同僚と約30km先の我が家まで歩くことに。
歩いて帰る人が道に溢れていたが、
互いに励まし合い、情報交換し助け合いながら歩きに歩いた。
途中、コンビニでトイレを借り、食料を仕入れようとしたが、
飲み物や食べるものが殆どない。
街角の自動販売機で買いながらかろうじて空腹をしのいだ。
また、何度も電話をかけたが不通状態。
家内や自宅の方も心配だったが、
震度7で倒壊、火災、津波被害の情報ばかりが入り、
田舎の方が本当に心配だった。
やっとの思いで家に辿り着いたのが夜中の2時過ぎ。
7時間も歩いた。
一方、家内は大きな地震に驚き、直ぐ帰宅。
幸い、家、家具や食器は異常なかった。
電話するも、何処も全く通じない。
テレビを見ると悲惨な情景ばかりが報道され、
大変心配したらしいが、
夫である私が歩いて無事に帰ってくると信じ、
それ程心配していなかったようだ。
夜中の2時頃、家に着いた時、家内は、
リビングルームでテレビ報道を見ながら私を待っていた。
改めて画像で見た情景は驚くことばかり。
2日後、田舎の甥っ子から電話があり、
食器類は壊れたが、家族や家などは全て大丈夫とのことだった。
しかし、さらに日本の運命を左右する非常事態が起こっていた。
そう、福島原発の津波被災による非常事態発生。
罷りまちがえば、関東全体も避難地域に。
後で故吉田所長の手記を読んで ぞっ! とした。
家内と南三陸町の被災した防災対策庁舎を訪れ、手を合わせた。
あれから6年。
復興もなかなか進まないようだ。
国のやるべきこと、我々のできること、
いろいろな知恵を出し合って復興支援を続けよう!
ところで、
家内はこの頃は、パーキンソン病の兆しは全くなく、
活動的だった。
あの頃の家内の笑顔は私を元気にさせた。
そして今、このような状態が待ち受けているとは・・・
家内の悔しさが伝わってくる。
家内の気の強さで、
PDを受入れ、笑顔と元気を取り戻して欲しいものだ。
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